スタジオ・ノーヴァ歴史の1ページ

スタジオ・ノーヴァのあゆみ 1

スタジオ・ノーヴァ第1期、テレビの活躍と不況の波   
 
 1969(昭和44)年、劇団創立40周年。十二月スタジオ・ ノーヴァ設立。それまで制作部内にあったテレビ部門を扱う第二制作部で活躍していた吉村ふく好・岡崎明俊を軸にして発展させ、美術の野田を加え、人形劇の映像を取り扱う部門を設立した。始めは隣接した記録映画社の裏の倉庫に事務所を置いてスタートし、緑色のカラー印刷の挨拶状を、長谷川正明、岡崎、星野毅の連名で全国に発送する。
 1970(昭和45)年。一月に法人化し、退団を希望していた梅原一男に一年間待って貰い、社長に就任させ、ノーヴァを設立・発足させるのである。委員会で決めた陣容は次の通り。梅原社長、野田、吉村、岡崎、佐藤東、清水優美、小島洋子、坂井みどりであった。劇団も田無に移転。ノーヴァも近くにあった農協ビルに移転し、制作部に後を譲り、初めての仕事は池袋西武百貨店地下ホールで、プークの黒の劇場の手法を売らんかなの企画を立て、ボードビル等小品を集めて上演を持った。そしてこの年は暮れる。
 1971 (昭和46)年。1月中にノーヴァは事務所を新大久保に移転する。始めの仕事はプークが進めてきたテレビ番組の継承であり事業の継続だ。四月からの新年度に向けて「スペイン語講座」をNHKから毎週OAすることになる。
 NTVのこども番組「おはようこどもショー」に人形劇コーナーが登場し、「五匹のニャイト」を放送し「花の好きな牛」等数本書いて、毎週よみうりランドのスタジオで撮影した。そして同時に、ニュース・コーナー「まんがジョッキー」に「ジョキ安」が登場する。NHKの高学年番組として「じんざえもんと5にんのともだち」の放送はじまる。秋の編成替えに「ママとあそぼうピンポンパン」の人形劇コーナー「ダバダバダ三兄弟」が加わる。

だばだばだ3兄弟

 NHKの1時間特別番組「ゆき」に野里元士さんと取り組む。この人形は全部木彫りで仕上げた。ノーヴァとプーク演技陣総出演で撮影した。
 秋には昨年から準備を始めていた、吉祥寺コスモビルPRのため「ポリタン・シヨー」を構成・演出した。酒井久美子に手伝って貰い、「X+Y」や「ポリタン」を演じてもらう。十一月末、プーク人形劇場が南新宿に落成する。
 冬休みにCMの打ち合わせを行った。それは、国鉄新幹線が大阪から岡山まで延長したので、それを、人形の新幹線が語る物だった。たしか東北新社だったと思う。
監督は前回と同じ市川崑だった。年が明けてアバコで撮影した。これはこの年のCM関係の賞を貰ったのだった。
 人事面ではいろいろな動きがあった。退団していた池内芳子をノーヴァの運営委員会に迎え入れ、事務局員に、劇団で吉村の助手をしていた長谷洋子を加え、充実を図る。小島洋子が出産の為休団する事で、ノーヴァの新人を71~74年にかけ募集する事になる。72年には岡野公夫、山本美穂子、戸嶋志津子、杉浦登を採用した。当時演技部で契約をしていたのは、劇団を都合で退団しフリーになっていた加藤玲子、前野博、古賀伸一、村松茂宏、山根宏章、磯辺美恵子や、潟見英明、飯室康一、清水正子、杉田智子と錚々たるメンバーだった。73年に矢羽夕起子・森山木の実。次に美術部員を募集した。72年、ガイ氏即興人形劇場に居た井上サチコ、梅本と、信子、人形劇団京芸にいたG子こと井上文子、田中正夫を採用した。念願だった酒井久美子を73年に美術部に復帰させて、第2次募集の74年に大森孝を加え、ノーヴアが映像の美術を全うする為に必要な戦力であった園サトルを、非常勤でなく契約で入社させ、第1次のノーヴア美術部の完成となる。
 1972(昭和47)年。NTV「おはようこどもショー」の人気被り物「ロバ君」(三木・市原製作)を「オットウ君」に取り替えた。製作はプークの中山だった。
  「青い馬」はノーヴァの舞台版として、別役実の書きおろし作品をNHKの渡邉治美の演出、星野美術で、池内、奥野らが俳優としにて舞台に立った。

青い馬

青い馬

 この頃、清水優美、PPT(プーク人形劇場)に移籍する。
 第11回ウニマ大会がシャルルビル・メジェール(フランス)で催された。日本ウニマ会長だった川尻は日本から四十名にも及ぶ参加者を募り、プークからも川尻、野田、他6名が参加する事になった。現地では、「日本の夕べ」で“人形日本風土記”のダイジェスト版を上演した。それから間もなく、プー吉班(小班)が「ひとまねアヒル」「小さなトムトム」で、日本に復帰したばかりの沖縄に巡演するのである。
 1973(昭和48)年。梅原が退社して岡崎が社長になる。ノーヴァは早野寿郎の提案で「別役シリーズ」を劇団俳小との合同公演をもち、『青い馬』再演と『海とうさぎ』を

海とうさぎ

海とうさぎ

、早野演出/野田美術でPPT上演する。
 プーク人形劇アカデミーが開校成って1期生が沢山入所した。
 待望の第一回アマチュアフェスティバルもPPTで開催される。
 さしもの好景気のノーヴァの活動も、石油危機の煽りを受けて、3年目に番組が減り始めた。子供のワイド番組が各局から消えたのもこの頃だった。五月の末ノーヴァは新大久保を引き払い、渋谷の並木橋の袂、鶯谷町へ移転した。
 待望だったTBSのレギュラー番組を、TBS映画社の映像で数本撮り、西友のファミリー・シアター「魔法使いの弟子」を仕込む。吉村企画で関谷幸雄演出/野田美術/横山道代とノーヴァ演技陣だった。引き続き吉村制作で福島カントリー・クラブのウィンドー飾りを一泊で出向く。野田美術/坂井みどりが参加する。
 大分のOBSから、年末家庭感謝祭に何か遣って欲しいと依頼があったので劇団に相談して、ノーヴァで『ひとまねアヒル』を仕込む事にした。これには村松のアコーディオンを中心に、劇団俳小の若手に参加させ、コンボを編成して生演奏を舞台に付けたのだった。引き続き「ピンポンパン」の人形劇コーナー「ダバダバダ三兄弟」を中心にしたコントで、ノーヴァ舞台班「ダバダバダ班」を結成し上演活動をする。翌年、京都の大丸からの依頼で急濾美術部に広田を加え、「ダバダバダ班」をもう一班仕込み上演。
 1975(昭和50)年。卯年なので兎のぴょん太を造りNHK教育テレビ「ぴょん太の安全教室」始まる。

ぴょん太の安全教室

六月二十六日中山杜卉子没。内山澄子、大石忠明、アカデミー一期生足立恵子、佐藤勝郎入社する。NTVの「ロンパー・ルーム」に出演が決まったのもこの頃だった。劇団「赤い鳥」の被り物ショー、「ふしぎの国のアリス」の美術製作を受け持つ。
 1976(昭和51)年辰年、星野、タスマニアに「とんまな天狗」指導に行く。アカデミー2期生酒井朝子、江原千代子入社する。岡崎、退社する。NHK総合テレビでみんなの歌「南の島のハメハメハ大王」野田/東/池内・村松・岡野他。宗方がノーヴァ社長に就任。岩波映画「コン太と森の仲問たち」撮影。NHK「きんの玉ぎんの玉」久し振りに木彫りで造る。日本教図でスライドを製作。フジポニーで「からオケ」を10数曲製作。CM、ライオン・スペシャル「加山雄三人形」をサイパンで撮影。野田、馬場。ノーヴアは鶯谷から代々木の記録映画社ビルに引っ越し。
 一時減少していたNHK教育の「幼児人形劇」「おとぎのへや」が、宗方・野田を中心としたスタッフの努力により、76年から84年にかけて、多くの作品を生みだした。
 また、79年四月より始まったテレビ埼玉の「お話かざぐるま」が、当初一年の予定が、その後二十年におよぶロングランを生む。いわゆる〈完パケ作品〉を作りうる会社スタジオ・ノーヴァの誕生である。
 この頃になって運営委員会の反省点は、世代交代の時期を逸した事だった。美術は製作に追われ殻に閉じ籠もりがちであった。もう相手側スタッフはそれが済み、若返っていたのである。話が噛み合わなくなっていたのであった。
 1984(昭和59)年。劇団創立55周年。一月末、宗方交通事故で死亡。

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