1953~70 舞台活動と映像活動
1953(昭和28)年。映像活動の華々しい一年だった。総天然色映画5巻「セロ弾きのゴーシュ」をクランクアップした。花王石鹸の人形映画「月の物語」、影絵映画「アラジンの不思議なランプ」も撮影した。
この年顕著は、日本でテレビ放送が始まった年である。国営のNHKから民放NTV、TBSと開局して、早くもプークはNTVで九月から、「アラビアン・ナイト」を13週続けて影絵で放送し始めたのである。
1954(昭和29)年。劇団創立25周年。新星映画「太陽のない街」に『大鉈騒動』で出演し、CMで日本ビールの「ビールの王様」をプークのアトリエで撮影する。新しく映画テレビ部のパンフレットを黄色い表紙で写真を一杯使用して造った。
7月影絵映画「イワンの馬鹿」の製作に入った。
原田和枝、長谷川敏子、亀田鉄子、野田牧史が準劇団員山田三郎のデザインを待っての製作だった。劇団の大半は『バヤヤ王子』の巡業で留守だった。撮影は九月の末、江古田の日大映画科のスタジオで行われた。クランク・アップしたこの映画は25周年の掉尾を飾って八重洲口の国鉄ホールでの公演のプログラムの一つとして、上映された。どうしてこの頃、プークの映像で影絵が主流であったかと云うと、川尻さんは毎回の公演で作・演出で目一杯の状態で、他の美術部員は退団していたからだった。影絵はデザインが出来れば後は工作員が多勢居れば出来なく無いのであって、丁度この時期のプークの美術部向きの仕事であったのだ。
1956(昭和31)年。NHK総合テレビ「チロリン村とクルミの木」放映はじまる。
☆第22回俳優座劇場『金の鍵』で、初めて人形を彫る。小林博さん嘱託で美術部に入る。新宿商店街の催しで被り物を7体造る。この被り物は全部張り子で造った。
養成所7期卒業。三木三郎美術部へ入部。
☆第23回公演『イソバと海賊』北海道夕張初日で幕開け。美術部がごっそり青函連絡船に乗り込む。この舞台は川尻さんの舞台装置の助手を大田サトルが務めたのだった。大阪のOTV開局記念で「カニの床屋」と「小さいお城」を撮影、放映。クラルテの稽古場を借りて「お城」のセットを造る。
1957年毎月一回、一年間「一体さん」をNHKで放映し、いよいよテレビ時代に突入した。台本は全部中江隆介であった。この時の録音は内幸町のスタジオで、プークの私達と「ヤン坊ニン坊トン坊」の黒柳徹子、里見京子、横山道代の3人娘や七尾令子さん達と一緒だった。まだ「声優」と云う職業が確立していなかった時代だった。
第25回公演『青い鳥』初演の後、モスクワ平和友好祭に川尻泰司、木村陽子、古賀伸一が初めて海を渡りフェスティバル運動に参加する。
1958(昭和33)年。二月「一休さんのたいこ」「一休さんのいじめっこ」の二本の人形映画を高円寺のスタジオで撮影する。
4月から放映が始まるNHKの「びっくりくん」の準備に入る。入学した1年生のびっくりくんが、新しい学用品や日常の持ち物を巡って学校や家庭で巻き起こすドラマで、その持ち物がアニメーションで動くのである。そのアニメーターが大田サトルだった。サトルは女子美出の7期生で、アニメーターの修業をした日本で初めての女性アニメーターと云っても良い人物だった。内幸町のNHKの裏から東京新聞に隣接した別棟の特別スタジオで、三月の始めから四月一杯まで徹夜状態で撮影されたのだった。徹夜明けで車で帰る途中、神宮の森の木々が日ごとに緑に色づくのを感慨深く見ていた。本編の撮影は第1スタジオで、すぐ前の大きな第3スタジオは「事件記者」が撮影されていた。プークのアトリエで、森永乳業のCM「ホモちゃんの天気予報」を撮影する。人形ホモちゃんの声を久里千春が遣っていた。
1958年NET、フジTV開局。NETの「理科教室」に吉村福子と納谷吾郎が毎週出演。
映像と云う言葉は以前からあったが、使われ出したのはテレビが放映されて暫くしてからだろう。スクリーンに映る映画と、ブラウン管に映るテレビの画面と両方共に、カメラを通した画像を映像と云ったのである。プークは早くから映画に取り組んだ。それは、川尻さんと中江さんの二人がそれを押し進めたからだが、然し舞台を中心に活動していたプークは、映像の仕事がどうも軽く思われた。いや蔑視していたと云っても良かっただろう。「テレビに逃げる」などと云っていたのである。だから劇団員で、出産を経験し、在京で休団中の者からテレビ放送に関与していたと云う状態だったのである。
NHK教育テレビ「ころすけくん」盛善吉作にユニット出演始まる。
「大きくなる子」第1回と呼ぶ。テレビ人形劇で棒遣い人形の初めてである。撮影の日は毎朝早く2tトラックで築地スタジオに人形、セットを持ち込み建て込んだものだ。
☆第28回公演『ファウスト博士』再々演で宇都宮、大阪公演。この時期プークは土地問題で揉めていて、肩流れの事務所側を総2階に建て替える事になった。大阪から帰った時に、出来上がった建物にそれぞれ配置されたのだった。美術部は1階の奥の階段の下(昔の倉庫と井戸のあった台所)の位置にアトリエを構えた。
八月第1回北海道人形劇フェスティバル開催。アトリエに『ファウスト博士』公演で俳優座製作場から戻って来た高橋春光さんがドリル一丁を持ち帰り、轆轤可能な電動木工の丸鋸を組み立てた。まだその頃は、毎日、七輪に炭入で練炭を熾し暖房と、焼き鏝と焼き火箸を突っ込みヤカンでお湯を沸かしていたのである。お湯は、湯煎した膠を接着剤や顔料の解き材にしていたから必需品だったのだ。穴を開けるのも錐や焼き火箸を使っていた。そんな風だったから、徹夜の仕事も多かったのは止むを得ない。然しこの轆轤機は「ころすけ」の製作に、大いに役立ったのである。不二家のペコちゃんが表紙になる月刊雑誌が発売される事になり、その表紙を毎号人形のペコ、ポコちゃんの衣装を変えて撮影した。それが店頭に立っているペコちゃんの変装に繋がるのである。CXの「マリン・コング」(ゴジラに引き続く海の怪獣物)を造ったのもこの頃だ。ラテックスの匂いがアトリエに籠もって臭かった。正式に、常時の部組織に美術部を再編したのもこの時だ。野田部長、高橋春光、小林博、大塚ふくよ、鈴木英子だった。この後入って来たのが星野毅だ。その後中国帰りの中出社卉子が入部する。
翌年春、新入募集でエスペランチスト伊東三郎さんの娘、宮崎路辺と明星学園の同窓生、小田部協子、佐々木苑子とが入部する。
秋にNHK・TVがカラー放映を始める。プークもその前に、千歳船橋のNHK技術センターで何度もテストに協力をした。
☆第30回公演『逃げ出したジュピター』お茶の水日仏会館。登場入物の人形を全部棒使いで造る。手足の関節の工夫、接着剤のカネスチックや塗料を顔料から油絵の具やネオ・カラーにしたのもこの時である。
第32回『石の花』公演の後、美術部のアトリエを奥の場所から前の玄関口の直ぐ横に移した。フィリップ・ジャンティが来て一緒に第3回北海道フェスに参加する。
表玄関を上がって、二階の経営制作部と宿直室のある部屋の、向かい側の部屋を映画部が陣取ったのもこの頃だ。テレビと映画を分けたのである。テレビは第二制作とし、野手、岡崎が担当して、映画部は梅原、高橋、宗方、久保田、竹内、吉村だった。第33回『勇敢なる兵卒シュベイク』で主入公シュベイクやバローンが数体ずつ必要なので思い切って、モデリングを石膏で雌型を取り、プラスチック樹脂を流して造る方法を取った。人形はモデリング通りの筈なのに、微妙な歪みが生じるのか、気に入らなかった事を思い出す。プラスチック樹脂加工の方法は悪くないのだが、仕事が仕事だけに、手元の周りで扱う道具や工具がからっと変わるのである。型を合わせる時の接着もからくりの固定も、樹脂の触媒を常時2液用意して置くことが能率を上げるコッである。だから、この公演以来暫く、テレビの人形もプラスチック成形で造ったりした。NHKの真理よし子と共演のダックスフント犬や、ボードビル作品の「しょじよ寺の狸囃子」の子狸達が現在残っているものだ。
1962年田井洋子台本で「ワンワンちゃん物語」を「コロン形式」と名付けた四つ足の犬の人形で放映。中江隆介没。15期生が卒業して昨年入所時から居た酒井久美子、加藤文子、真島美恵子、小俣毅彦、佐野直栄がそのまま美術部に入った。
1969年スタジオ・ノーヴア設立を発表する。70年東宝舞台「巨入の星」上演。翌年の大阪新歌舞伎座「サインはV」につながる。