スタジオ・ノーヴァ歴史の1ページ

現代人形劇と映像


人形のテクニカルスタッフ スタジオ・ノーヴアのあゆみ
                  
1953~1968

日本の現代人形劇のはじまり
 
  日本における現代人形劇の歴史は八十年ほどである。1918年第一次世界大戦終結後、旧体制が瓦解したあとの欧州各国で、自由で斬新な表現を求める芸術近代化の運動が、若い芸術家たちを中心に興りやがて運動はヨーロッパ全土に広がっていった。人形劇の分野でも古い伝統人形劇にかわる自由な新しい表現を志向する現代人形劇の創造が多くの青年美術家や演劇人によって試みられ人形劇芸術の可能性を探求する芸術運動となって、チェコ、フランス、イギリス、ロシア、イタリアなどヨーロッパ各地に定着し、1929年には各国の人形劇人がプラハに集い国際人形劇連盟を設立する。
 日本でこの運動にいちはやく注目したのが築地小劇場で新しい演劇の創造をめざしていた舞台装置家の伊藤熹朔や千田是也たち二十歳代の演劇青年たちだった。彼らは1923年秋「お人形座」の名で糸操り人形による人形劇試演会を開催した。これが日本の現代人形劇の歴史のはじめと言われている。その翌年には版画家の永瀬義郎や恩地孝四郎らのテアトル・マリオネット、松竹大船の映画美術監督の浜田辰夫、土方定一らのテアトル・ククラ、川尻東次、潮田税らの人形クラブなどがあいついで創立される。しかしこれらのグループの活動は、青年時代の趣味、研究などサロン的活動の域を出ないものであったから、やがて彼らの本来の仕事が本格化するにつれ、自然と人形劇の活動から離れグループは解消していった。ただ教育者を中心とする人形劇は、視聴覚教育という新しい幼児教育方針のなかでその役割が注目され活動は活発化していった。
 伝統人形劇をのぞく職業的専門人形劇の本格的な活動は、戦後の1945年八月以降である。戦争で活動を休止していた人形劇団、グループと新興のグループが相次いで公演活動をはじめた。1946年十二月には三十の劇団、研究グループによって日本人形劇協議会が設立される。人形劇は一時百花繚乱のていであったが、しかしその多くが技術的に未熟で職業化は難しく、多くの劇団やクループは50年までに経営的理由で休業または解散に追い込まれていった。しかしこの困難な時代にあって人形劇の職業化、専門化をめざす少数の劇団によって人形劇俳優、美術家の養成の努力は続けられ、その成果は1960年代のテレビ時代に開花していく。     ’`
               
現代人形劇と映像
 
  日本における人形劇の映像化の試みの初めはいつであるかは判然としない。戦中の1942年(昭和十七)、満映作品・結城人形座出演「夜明珠伝」(製作/岩崎昶、監督/八田元夫、美術監督/山崎醇之輔)が作られている。1944年には川尻泰司が日本映画社練馬製作所で「南の国の影法師」の一部を試作している。

南の国の影法師

また終戦の年の1945年十二月に市川崑監督が東宝映画「踊る人形」(出演/川崎プッペ)を撮っている。しかしいずれも残念ながら一般の目にふれることなく記録として伝えられているのみである。


 戦後占領下の日本は物資不足と生産体制は整わず映画製作もまた制限されていたが、50年代に入るとようやくフイルムや機材の生産が軌道にのり、またテレビ放送の実験も始まり人形映画製作の企画が出始める。1953年には人形劇映画のエポックを画した初の国産コニカラー映画三井芸術プロ作品「セロ弾きのゴーシュ」五巻(原作/宮沢賢治、製作/厚木たか、脚色/田中澄江、監督/森永健次郎、美術/川尻泰司、出演/プーク)が製作され洋画系の映画館で封切られた。

セロ引きのゴーシュ

セロ弾きのゴーシュ


 1953年にはNHKと日本テレビがテレビ放送を開始し、50年代後半には関西、東海、九州など地方民放各社の放送もはじまった。テレビ時代の幕開けだ。結城人形座、竹田人形座、人形劇団プークなどの既存の人形劇団のテレビ出演につづいて人形劇俳優個人の出演の機会がひろがる新時代を迎えた。また視聴覚時代を先取りしようと十六ミリ映画の製作も盛んとなった。1956年には東映教育映両部で山根能文/製作・人形映画「若返りの泉」が製作され、教育映画の配給を専門とする企業も製作にかかわり、人形劇映画は一時隆盛を極めた。60年代に入るとTBSテレビ、日本教育テレビ、フジテレビ、NHK教育テレビと全国ネットをもつキー局があいついで発足し、子ども番組やCMなどで人形出演の需要は急速に伸び、人形劇団の数も増え、また人形劇のタレントをめざす若い人たちの参入も盛んとなり、人形劇の職業化がいっきに実現した。

人形劇団プークの映像活動
 
 1969年十二月、スタジオ・ノーヴァは、人形劇団プークの映像部門を母胎に独立、人形を中心とした映像専門の技術スタッフ集団として発足した。
 人形劇団プークは1929年創立の現代人形劇の創造集団である。プークは、創立の当初より人形劇の映像化に深い関心をもち、1933年十月の第四回公演「勇敢なる兵卒シュベイク」の演出補導に松竹大船撮影所で小津安二郎監督「東京の女」をはじめ吉村公三郎監督「暖流」などの映画美術監督をつとめた金須孝氏を招いて舞台の中での映像について指導を受け、40年にはグループ内に「人形映画製作研究会」を設け映画理論の勉強を始めている。戦時中には、前述のニュース映画制作会社の日本映画社練馬製作所で人形映画「南の国の影法師」を試作する経験をしている。戦後、1951年から新世界映画社や理研映画のニュースフィルムなどに出演し、1953年には三井芸術プロ作品「セロ弾きのゴーシュ」製作に劇団あげて取り組んだ。この経験はこの後に作られる十六ミリ映画「ピョントコうさぎ物語」、「一休さんシリーズ」、テレビ人形映画「月の物語」、「ホモちゃんの天気予報」四十本など数多くの人形映画の製作に活かされた。

月の物語

月の物語

ホモちゃんの天気予報

ホモちゃんの天気予報


 1953年、日本テレビ開局では三ヶ月にわたり影絵「アラビアンナイト」13回をプークユニットで生放送する。1950年末から60年代はじめにかけ、子ども向き番組、CMなどに人形劇出演の需要が急速に増え、60年代半ばにはプークの活動の80%がテレビ部門でしめられるほどになる。こうした活発な映像活動に対応してプークは、舞台と映像での二つを事業の柱とする活動方針をとる。この時代、プークはテレビ番組の中で棒使い人形、黒の劇場形式の導入、操りとコマ撮りの合成など意欲的な実験を試みている。

 58年四月からNHK教育番組で週一回放送した「びっくりくん」は、日本で最初の操りとアニメーション合成のテレビ映画である。

びっくりくん

びっくりくん

主人公の小学一年生の「びっくりくん」は手使いの人形で、「びっくりくん」をとりまくランドセルや鉛筆、消しゴム、ノートなどの物はアニメーションで動くというNHKテレビディレクター伊達兼三郎とプークの川尻泰司が企画し作家の筒井敬介と組んで実験的に取り組んだ異色作だった。

新幹線CM

新幹線CM

また59年NHK教育テレビ開局のテレビ人形劇「第一回大きくなる子―ころすけくん」では人形形式を棒使い人形にしてこれまでカメラワークが正面のみであったものを部分的にも俯瞰撮影を交える画面作りをとりいれる。さらにはプークが舞台で実験的な試みをしていた「黒の劇場」形式のテレビヘの導入は注目を浴びた。64年東京オリンピック開催にあわせて東海道新幹線が開通、映画監督市川崑演出、プーク製作の人形による「新幹線CM」は評判を呼んだ。テレビでの人形劇の活躍は人形劇の舞台公演活動へと波及し、60年代半ばには「子どもの情操教育に優れた文化財を与えよう」という日本各地の地域の母親と青年たちでつくる子どものための舞台鑑賞組織「子ども劇場」や映画鑑賞組織「親子劇場」が発足し、プークの公演活動に対する期待と要望が高まった。劇団の経営は安定したが団員たちの活動は舞台と映像の両方をかけもち多忙を極めた。その結果、稽古時間の減少や準備不足など舞台、映像部門いずれの創造的活動に支障をもたらしはじめた。もはや映像部門の活動は劇団の一部門の事業としてすすめる段階を超えた。活動をいっそう活発化するには映像部門を劇団と切り離し独立させ専門化することが必然的な流れとなった。

 

 

 

 

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