1969~1983
スタジオ・ノーヴアの発足
人形劇団プークは1971年人形劇専門劇場「プーク人形劇場」の完成を前にして、劇団と映像部と劇場の三つの部門の独立法人設立の方針を立て、1969年十二月、劇団の営業制作部門の中の映像部門を担当していた第二制作部と劇団の美術スタッフの一部を分割して、劇団とは経営上独立した事業体を設立すべく準備をすすめた。新発足する集団は、人形を中心とする映像の技術スタッフ集団としプーク創立者で劇団代表の故川尻泰司の発案で「新時代の技術集団」の意をこめ「スタジオ・ノーヴァ」と命名した。
スタジオ・ノーヴァは翌年一月に法人化し有限会社スタジオ・ノーヴァ(代表取締役・梅原一男)として設立。事業目的はこれまでプークが行っていたテレビ番組やテレビCMはじめ映像関係の仕事すべてをひきつぐとともに、これまでプークが蓄積してきた映像活動と舞台活動の技術とプークが開発した人形劇のノウハウのすべてを利用し継承発展させることを社是とした。
新発足したスタジオ・ノーヴァの仕事の手始めはこれまでプークが進めてきたテレビ番組の継承であり事業の継続であり、そしてそれはプークの演技アンサンブルが担っていたテレビ人形劇の出演者の確保だった。さいわい種々の事情でプークを退団した現役の俳優たちがこれをうめた。美術スクッフの中心には長年プークの美術部長をつとめた野田牧史が担当し、また実際の仕事はプークの美術部が応援した。7月には東宝芸術座公演「巨人の星」(長岡輝子演出)に人形製作と出演が決まり、続いて大阪万博に沸く大阪新歌舞伎座「サインはV」(松浦竹夫演出)出演も決まって滑り出しは好調に見えた。
石油ショックと経営危機
ところが1973年秋第四次中東戦争がはじまり石油危機が世界中に広がった。石油に、電気をはじめエネルギーの殆どを依存し、また主なる日常生活用品が石油化学製品で占められている日本経済への打撃は大きく、電気の供給制限を求められた企業は操業を縮小し経済活動は急速に停滞した。また国民の日常生活にも直撃し、物価は高騰いっぺんにインフレと不況が押し寄せた。これは発足したばかりのスタジオ・ノーヴァにとって大きな打撃となった。ノーヴァの主要製品のほとんどが塩化ビニール、プラスティックなど石油化学製品だったから仕入れ材料は品不足で高騰し、しかもその値上がり分は不況で価格に上乗せできず据え置かれたままである。テレビ・コマーシャルの新規製作はストップしテレビ番組製作予算は縮小した。戦争は三ヶ月ほどで収束し石油危機は去ったがインフレの傷跡は残った。ノーヴァの経営状態は悪化しきびしい経済状況が1974、75年、76年と続いた。プークから、人と金の両面から応援を受けて経営立て直しを図ったが赤字態勢からなかなか脱しきれず、76年三月には新しく代表取締役にプーク人形劇場から宗方真人を迎えいれ経営陣の刷新を計った。
経営再建とテレビ埼玉放送「お話かざぐるま」
77年春、スタジオ・ノーヴァに画期的な仕事が舞い込んだ。翌年四月に埼玉県のバックアップで新しく開局する予定の「テレビ埼玉」が県教育委員会から受注した小学校低学年向き教育番組「お話かざぐるま」の製作である。
年間を通して午前中週一回放送される十五分の番組で三年間を1クールとする長寿番組である。スポンサーの埼玉県教育委員会が1959年NHK教育放送の発足から小学校低学年向道徳番組「大きくなる子」に注目し、この番組の美術と出演を発足から継続して担当してきたプークならびにスタジオ・ノーヴァの技術と実績を高く評価しての注文だった。ただこの仕事には埼玉テレビから特別の条件がついていた。それは完成品をビデオで納入すること、テレビ埼玉は放送とプロデュースの責任を負うが、作品の具体的な製作には一切関わらない。業界で言う「完全パッケージ」納入である。これまで単発で制作したことはあるが長期間にわたってこれはどの量を製作したことはなかった。しかも一本あたりの制作費予算は市場の半分以下の低廉な数字だ。ただ魅力は作品製作の一切を任せるという自由と長期間にわたる放送と多量の本数である。
テレビ人形劇の研究と技術開発の絶好の機会である。さいわい仕事の上で親しくしていたアバコ・スタジオが当時ビデオ製作に意欲を燃やしていて、この企画に全面的な協力を得ることが出来たこともこの仕事を可能にした。放送は78年四月に始まった。以来二十一年継続された。
またこの時期に、記録映画社と組んで人形映画「トラちゃんの消防隊長」(86年教育映画最優秀賞受賞)の製作、十数本の企業の社内用ビデオ製作など同様の仕事が併行して入ってきた。こうしてこの期間に培われた研究と実験模索はスタジオ・ノーヴァのスタッフを技術的にも知識の上でも大きくし向上と自信を植付けた。