制作会社としての確立と技術の進歩
スタジオ・ノーヴァが出発して二年位たった頃、フジTV(JOCX)「ママとあそぼうピンポンパン」が始まった。「ママとあそぼうピンポンパン」は、それまで白黒で放送されていたが、この番組の「ダバダバダショー」からカラー放送になった。それまでの多くの番組はカラーではなく、カメラにズームレンズはついてなく、四本のターレットレンズで広角・標準・望遠と手で切り変えていた。テレビがカラーになって、映像技術が急激に進歩していった。NTV(日本テレビ)のRCAのカメラは、太い三本ものケーブルがあり、そのケーブルを捌くのに《ケーブルさん》と呼ばれるスタッフが必要だった。CXのフィリップスのカメラも二本のケーブルがあった。今のカラーのカメラは細い一本のケーブルしかない。そして《ケーブルさん》も、もういない。
人形劇としては、プーク・ノーヴァは専門職であったが、映像に関しては必ずしもそうではなかった。CX「ママとあそぼうピンポンパン」の映像技術陣は飛びきり優秀だった。新しい技術がどんどん開発された。彼らはそれを使って何とか映像表現をしてみたかった。ノーヴアの人形と一緒に組んでやってみないかと相談があった。岡崎明俊氏の台本で「やまたのをろち」を制作した。完成した作品は新技術のオンパレードだった。カメラ・照明・VE・人形キャスト、スタッフ全員が何日か真夜中まで頑張った。その後、CXビデオ局制作の「カラオケシリーズ」とつながった。新しい技術が出来ると、すぐ、人形でテストしてみた。「カラオケシリーズ」は、私としては、人形劇映像の可能性を立体・平面・素材と、ある意味で人形劇映像のパンフレットみたいものだと思っている。これを見れば、人形の事は大抵わかるだろう。
その頃、まだ誰も手掛けていなかったCG(コンピューターグラフィックス)も制作した。HD(ハードディスク)もない頃、データの打ち込みは穿孔テープという2cm幅程の紙のテープに読み取り用の穴を空ける方式だった。その穴の有無をコンピュータが読み込むのだ。打ち込みには一週間もかかった。そのテープが山のように溜まり、完成した映像は、とにかく人形のバックに簡単な動きのものしか出来なかったが、新しい事をやったという事だけで、大変嬉しかった。
当時、「ママとあそぽうピンポンパン」はリハーサルー日、VTR収録二日、その他のコーナーの打ち合わせ等、一週間毎日局にいたような気がする。
本番終了後は、制作・演出・技術・美術の全員が局前の居酒屋で次の番組の打ち合わせをし、そして家に帰るのは大抵朝の三時、四時。四時間位眠って、又局へ、という生活で、番組にどっぷりっかっていた。そうしているうちに番組づくりということが少しずつ理解出来たような気がする。
その後、テレビ埼玉「お話かざぐるま」の制作が入った。アバコスタジオの現場に入って、ビックリした。VTRが3/4インチ。カメラは二台ある。しかし、色が一台ごとにまったく違う。その調整に一時間以上かかることもしばしば。照明も吊ってあるライトの数が少なく、足りない。ライトはセットの両脇にスタンドで立てた。そのためスタンバイに時間がかかるという、驚きの連続。今まで最新の技術とスタジオで番組を制作していた者にとってはショックだった。しかし、アバコクリェイティブスタジオのスタッフである林昌平氏、数原憲治氏たちの熱意はすごかった。機材の不備などものとせず、みんなを感動させる作品に仕上げた。作品は、設備・機材ではないという(ものづくり)の原点を教えてくれた。
宗方・野田はまだ若かった。エネルギーが満ちあふれていた。アバコのスタッフや人形キャストといっしょに、「お話かざぐるま」年間四十本という作品を、勢いで仕上げていった。これがノーヴァの制作プロダクションとしての確立となった。
それから何年か経ち、「ピンポンパン」のディレクターだった藤田洋一氏が「ひらけ!ポンキッキ」のプロデューサーとなっていた。その藤田氏から、人形劇をやらないかとのお話があった。ノーヴアだったら、(完パケ)でやってくれるだろうとの事。嬉しかった。キー局からノーヴァの力が認められたのだ。アバコの数原氏に、又、協力をお願いした。「ポンキッキ」の中で5~6分の連続人形劇「アップルポップ」は数多くの人達に助けられて六年も続いた。「ポンキッキ」はノーヴァに色々なチャンスを与えてくれた。
筧達二郎氏は教育ビデオ「算数シリーズ」(二十分)を十本。このシリーズでは、園サトルによる、ノーヴァ初の立体アニメも制作した。「ポンキッキ」では、星野毅・佐藤東による人形ヴォードビルも(完パケ)で四構成、合計二十五作品を制作した。これらの仕事は、制作・構成・演出・美術・操演等すべてをおこなった。ノーヴァは、日本で唯一、企画・制作・演出・美術・操演が出来る集団となった。
1991年には、花小金井のプークの稽古場に照明器具・調整装置を入れ、撮影スタジオとして使用出来るようにし、そこで数多くの作品を作った。以後の「お話かざぐるま」もここで撮影した。
「お話かざぐるま」も最初の頃は、カメラ二~三台でスイッチングをしながら撮影していたが、そのうち、番組制作経費削減の問題と共に、ある部分ではやむをえないと覚悟を決め、制作スタイルを変えてみた。その結果、一台のカメラで撮影しても画面的にもいいものが出来ることに気づいた。
※A例(前半)~カメラ3名・アシスタント1名・VE1名・VTRのスイッチヤ-1名・音声2名・照明3名・美術名・ 人形操作6名・スタジオマン1名・演出1名・制作2名……合計スタッフ26名
※B例(後半)~カメラ1名・VTR1名・音声1名・照明2名・美術4名・人形操作5名・スタジオマン1名・演出1名・ 制作2名……合計19名
これは、テレビ埼玉「お話かざぐるま」のカメラ二台をスイッチングをする時と、一台のカメラを使って、ポスプロで編集する場合の、人数の差と機材の量の違いの一例です。
このようなエ夫をしながらテレビ番組や、PRビデオ、教育ビデオ、CM等制作していった。
人形制作プロダクションとしては、「アップルポップ」が終了して以来、帯番組(一週=五日~六日放送)の《完パケ》人形劇を制作していなかった。
そこにNHK青少年の中村哲志氏より「天才てれびくんワイド」の中の1コーナーだが、将来の連続人形劇のためにやってみないかとのお話があった。中村氏とは、かねてからNHKの連続人形劇の復活を相談していた。スタジオ・ノーヴアの久々の制作プロとしての活動となる「ドラムカンナの冒険」
だった。新宿のエ房だけでは人形から小道具まで美術全部の製作が出来ないので、八王子に「ドラムカンナの冒険」用のエ房を借りた。又、NHK内部ではスタジオが確保できないため、外部スタジオで制作する事にした。
演出・脚本・作曲・人形デザイン・CG等多数の人達と連日打ち合わせ、ノーヴァからもデザイン植松・菅澤等が参加した。事情により外部スタジオ撮影になったので、技術はNHKの人ではなく外部スタッフに、大道具も外部の佐々木氏(以前二時間人形ドラマの制作で出会ったセットデザイナー)になった。人形操作の人達も集めた。スケジュール調整が大変、制作デスクの酒井が大車輪で働いた。
ようやく人形、大道具も間に合いそうだ。技術もテストを始めた。人形の声も入った。音楽も作った。演出の園田氏は台本直しとカット割りで大分バテ気味。ノーヴァ美術部員もだいぶバテ気味だ。
とにかく皆疲れ果てたまま、撮影に入った。最初は三日撮りのつもりだった。やってみると、臨時のチームはなかなかうまく動かない。深夜、早朝まで撮影しても撮り切れない。撮り残し、後二日位かかりそう。ホテル代、ククシー代、弁当代、スタジオ代、技術費等々。大変だ!制作の私としては大あわて。ここはまず皆さんにお願いするしかない、等々……大騒ぎしつつの何カ月間か、スタジオに四日~五日続けて通った。皆んな大変だった。小さな子供のある人。次の日早朝から別の仕事のある人。皆さん本当にご苦労様でした。おかげでなんとか、全十二週二十六本の番組完成で全関係者に御礼。
後は演出が編集と音付けをやれば、試写、納品というところで終了。その後は放送されて番組の評判の良し悪しで制作プロダクションとしての評価が出ます。